当サイトのシミュレーターは、値動きが正規分布に従うと仮定して計算しています。本書の第4章は、その仮定を名指しで批判します。相場の暴落は、正規分布が想定するよりずっと頻繁に起きる、と。
もっともな批判です。そこで、当サイトの計算からその仮定だけを外してみました。結論を先に言うと、批判は年単位では完全に正しく、30年の積立では結果をほとんど動かしませんでした。 そしてその「ほとんど動かない」という結果は、著者自身が第6章で書いていることと一致します。
どんな本か
投資の指南書ではありません。ランダムウォーク理論からポートフォリオ理論、ブラック=ショールズ、VaR、行動ファイナンス、そして人工知能まで、ファイナンス理論が何を明らかにし、どこで現実に裏切られてきたかを年代順に追った歴史の本です。
数式はほとんど出てきません。理論そのものより、理論を作った人と、理論が現実とぶつかった事件(ブラックマンデー、LTCM の破綻、リーマン・ショック)の記述に紙幅が割かれています。
著者の立場は一貫して中立です。
理論を絶対視することはナンセンスである。一方で、それを無視することも得策ではない。
— 第6章
本書が正規分布を批判する理由
第4章の主役は1987年のブラックマンデーです。
わずか1日でダウ工業株30種平均株価指数は22・6%も下がった
— 第4章
本書は、この下落が正規分布のもとでどれくらいありえないことかを計算してみせます。答えは「6×10の97乗年に一度」。宇宙の年齢が1.4×10の10乗年ほどですから、事実上ゼロです。
正規分布が成り立つ世界では、宇宙の歴史が何億回と繰り返されてもブラックマンデーは一度も起きない。ところが、我々が住む世界では実際に起きた。
— 第4章
確率ゼロのはずの出来事が実際に起きた。ならば疑うべきは現実ではなく、正規分布という仮定のほうではないか——これが本書の論法です。
この性質には名前が付いています。
「急激な価格変動が起きる確率は正規分布で想定されるよりも高い」ことをファットテールと呼ぶ
— 第4章
本書は S&P500 の月間騰落率(1950年1月〜2017年8月)のヒストグラムを正規分布と重ねた図を載せ、実際の分布には ①中心が高い ②その外側が薄い ③両端の裾が厚い という3つの特徴があると指摘します。厄介なのは③です。
そして、投資家にとっての含意をこう書きます。
長期的な投資成績は、その異常な1%をいかに切り抜けるかにかかっているということになる
— 第4章
検証:仮定を入れ替えるとどうなるか
当サイトのモンテカルロ・シミュレーションは、まさに批判されている正規分布を使っています。ですから、この批判は他人事ではありません。実際に何がどれだけ変わるのかを確かめます。
期待リターンとリスク(標準偏差)は同じに保ったまま、年ごとの値動きの分布だけを「裾の厚い分布」に差し替えます。 ばらつきの大きさは同じで、極端な出来事の起きやすさだけが違う、という比較です。
| 条件 | 設定 |
|---|---|
| 毎月の積立額 | 5万円 |
| 積立期間 | 30年 |
| 期待リターン | 5.5%(両者で共通) |
| リスク | 14%(両者で共通) |
| 比較する分布 | 正規分布 / 裾の厚い分布 |
1年で見ると、本書の指摘どおり
まず、1年間で大きく下げる頻度を比べます。
差は歴然です。正規分布なら26,818年に1回しか起きないはずの年間40%下落が、裾の厚い分布では401年に1回起きます。
もっと極端なところではさらに開きます。50%下落は、正規分布なら14,149,296年に1回。人類が存在してきた期間よりはるかに長い間隔です。裾の厚い分布では1,150年に1回で、こちらは歴史の記録に残るスケールに収まります。
正規分布が極端な下落を過小評価するという本書の指摘は、正しい。 しかも深いところほど、過小評価の度合いが激しくなります。
ところが30年積み立てると、ほとんど差が出ない
同じ2つの分布で、30年間の積立をそれぞれ5万回シミュレーションしました。
| 指標 | 正規分布 | 裾の厚い分布 |
|---|---|---|
| 下位1% | 1,288万円 | 1,257万円 |
| 下位10% | 2,076万円 | 2,107万円 |
| 中央値 | 3,933万円 | 3,916万円 |
| 上位10% | 7,878万円 | 7,705万円 |
| 元本割れ確率 | 5.7% | 5.4% |
拠出総額は1,800万円です。
ほとんど変わりません。 最も差が出そうな下位1%でさえ、裾の厚い分布のほうが31万円悪いだけです。1年単位では数十倍の頻度差があったのに、30年積み立てた結果はこの程度しか動きませんでした。
元本割れ確率にいたっては、裾の厚い分布のほうがわずかに低く出ています。これは3つの特徴の①、つまり中心が高いことの効果です。標準偏差を同じに保ったまま裾を厚くすると、そのぶん中心付近に確率が集まります。裾で損する分を、中心の安定が埋め合わせるかたちになります。
なぜ薄まるのか
理由は積立の構造にあります。30年の積立は、30回の独立した年次リターンを掛け合わせたものです。極端な年が1回混じっても、残りの29年で薄まってしまう。1回の勝負なら致命傷になる裾の厚さが、30回の積み重ねでは平均化されて見えなくなります。
裏を返せば、期間が短いほど本書の警告はそのまま効きます。下のボックスで積立期間を1年や3年にしてみると、2つの分布の差が戻ってくるのが分かります。
自分の数字で試す
実験本文の数値は固定です。ここで変えても記事の結論は変わりません。「記事の前提」と「あなたの条件」を並べて表示します。
| 項目 | 記事の前提 | あなたの条件 |
|---|---|---|
| 下位1%(正規分布) | 1,288万円 | 1,288万円 |
| 下位1%(裾の厚い分布) | 1,257万円 | 1,257万円 |
| 元本割れ確率(正規分布) | 5.7% | 5.7% |
| 元本割れ確率(裾の厚い分布) | 5.4% | 5.4% |
毎月の積立額5万円・期待リターン5.5%は固定しています。積立期間を短くすると、二つの分布の差が戻ってくるのが分かります。裾の厚さは数字が小さいほど厚くなります。あなたの条件は 4,000 回の簡易計算のため、本文(5万回)とは末尾がずれます。
著者自身が、第4章の批判を限定している
ここまでの結果は、実は本書と矛盾しません。第6章で著者はこう書いています。
異常事態が起きていない平常時においては、正規分布の仮定はとくに大きな問題を起こさない
— 第6章
正規分布からの逸脱が問題になるのは、恐らくゼロコンマ何パーセントかの異常事態のときだけなのである
— 第6章
そして、その「ゼロコンマ何パーセント」を扱わなければならないのは誰かを明示します。
そのゼロコンマ何パーセントを扱わなくてはならないリスク管理の担当者や経営者は、正規分布の仮定に安住することが許されない
— 第6章
リスク管理の担当者や経営者。無レバレッジで積み立てる個人ではありません。本書が第3章と第6章で詳述する破滅の事例——VaR を信じた金融機関、レバレッジ25倍で運用していた LTCM——は、いずれも1回の異常事態で退場させられる立場にいた人たちです。ファットテールが致命傷になるのは、そこで降りられない人です。
著者は正規分布批判そのものについても、行き過ぎを戒めています。
「正規分布しか想定していなかった」というのは誇張された批判であり、少々ピントがずれているように思う
— 第6章
第4章だけを読むと「正規分布を使う計算は無意味」という印象を受けますが、それは本書の主張ではありません。第4章と第6章はセットで読む必要があります。
日本の読者が補って読むところ
- 図表のデータはいずれも米国市場です。図8 は S&P500 の1950年1月から2017年8月まで。日本市場や、当サイトが想定するグローバル分散のポートフォリオの数字ではありません。
- 本書の刊行は2017年12月です。それ以降のコロナ・ショックなどは扱われていません。
- 本書はレバレッジやデリバティブを使う主体の失敗を多く扱います。NISA で投資信託を積み立てる読者は、本書が描く破滅事例とは立場が違います。そこを混同すると、必要のない恐怖だけが残ります。
この記事の限界
- 当サイトの計算は、各年の値動きを互いに独立な乱数として扱っています。 現実の暴落は連続して起きる傾向(値動きの荒い時期が固まる性質)がありますが、この構造を当サイトのシミュレーターは持っていません。上の「30年で薄まる」という結論は、この独立性の仮定に強く依存します。暴落が固まって起きるなら、薄まり方は弱くなります。
- 同じ理由で、本書が扱うブラックマンデーそのものを再現することはできません。 日々の実際の値動きの並び順が必要で、乱数では代替できないためです。
- 「裾の厚い分布」として何を選ぶかは一意に決まりません。本書はマンデルブロの安定分布に触れつつ、それが全面的に正しいとは言えないとも書いています。この記事では標準偏差を揃えたまま裾だけを厚くできる分布を選んでおり、本書が特定の分布を推奨しているわけではありません。
- 期待リターン5.5%・リスク14%は当サイトの想定値で、将来を保証しません。本書の立場からすれば、この想定自体が疑うべき対象です。
- 上のグラフは当サイトが独自に計算したもので、本書の図の再現ではありません。
どんな人に向くか
投資の判断を変えてくれる本ではありません。何を買えばいいかは書いていない本です。
向いているのは、自分が使っているツールが何を仮定しているのかを知りたい人です。当サイトのシミュレーターも、他社の資産形成シミュレーターも、たいていは正規分布を仮定しています。その仮定がどこから来て、どこで破れるのかを一冊で追えるのは貴重です。
逆に、具体的な銘柄選択や積立の設計を知りたい段階の人には遠回りです。その場合は先に新NISAの仕組みや一括投資と積立の比較を読むほうが実用的です。
理論と現実のずれについての、本書の締めくくりを引いておきます。
理論と現実にはずれがある。しかし、そのずれこそが宝の山なのだ
— 第6章
出典
- 田渕直也著『ファイナンス理論全史 儲けの法則と相場の本質』ダイヤモンド社、2017年12月13日、ISBN 9784478103753 — 本文中の引用の出典(出版社の書籍ページ)
- データの透明性レポート — 当サイトの想定値とその根拠
- 積立実験室の計算方法 — モンテカルロ・シミュレーションの仕組み